村上記念病院のはじまり

約380年前の寛永17年(1640年)、中津諸町にて、村上宗伯が京都の名医・古林見宜から開業免許を受け、「村上医院」を開業しました。当時、日本は三代将軍・徳川家光の統治下にあり、豊前中津藩では小笠原長次公が藩主を務めていました。村上宗伯は、小笠原家の初代から御典医を務めることになり、その地位を確立しました。

その後、享保2年(1717年)、奥平昌成公が丹後宮津から中津十万石に封ぜられると、村上家は引き続き奥平家の御典医を任され、以来、十三代にわたりその伝統を守り続けています。

三代目の村上玄水(1729年没)が創製したと伝えられる家伝薬「磨積圓」は、250年以上の歴史を経て、村上記念病院を通じて広く用いられていました。

村上良慶 (村上宗伯の曽祖父)

七代目玄水は、文政2年(1819年)、藩の死刑囚の遺体を藩の処刑場「長浜」(現在の中津市錆矢堂付近)で自ら解剖し、『解剖図説』を著しました。これは、九州における初めての人体解剖として記録されています。また、中津市宮永水源地付近に薬草園を開設し、人参をはじめとする薬草の自家栽培も行いました。

さらに、医業以外にも独創的な発想で地域に貢献し、中津における「花火術」の創始者となったほか、「立干し網漁法」の工夫など、多方面にわたる博識を活かして郷土に尽力しました。

なお、医院開設当時の建物は現存しており、現在は「村上医家史料館」として保存されています。その待合室の壁には、次のような言葉が掲げられていました。

医は仁術にして、
その報酬もとより
受くる処にあらざると云えども
薬価の暴騰はいちじるしく

 よって応分の薬代を受くるものなり

家伝薬「磨積圓」薬袋
村上玄水著「解臓記」

薬袋には 
信なきは治せず 
疑いあらば
速やかに去られたり

 このような姿勢にも、村上医家の家訓である「医も亦自然に従う」という精神が表れています。

村上記念病院は、九州の財界人によって、西日本鉄道初代社長・村上巧兒翁の功績を称え、また彼の先祖である村上宗伯氏を記念して、中津市諸町に昭和32年4月に開院されました。

村上田長(左)
村上和三(左)、村上巧兒(右)

初代院長は、村上医院の開祖である村上宗伯氏から十一代目にあたる村上健一氏が就任しました。

その後、二代目は鈴木圭吉氏、三代目は天野武勇氏、四代目は上田一雄氏、五代目は初代院長の長男である村上玄兒氏が務め、六代目には再び上田一雄氏、そして七代目には中山吉福氏が就任し、現在に至っています。

理事長には、当時井筒屋社長であった菊池安右衛門氏の次男で、福岡大学副学長を務めていた菊池昌弘氏(村上巧兒氏の末娘の長女の夫であり、元久留米大学学長・中川洋氏の義理の息子)が就任しました。

平成24年4月25日からは、菊池昌弘氏の長男である菊池仁志氏がその後を引き継いでいます。

ギャラリー

診療報酬の定書
村上医家の医局
村上医家の医局
ランビキ(蒸留器)… 左側
六代・村上玄秀所持の「薬種箱」漆塗五段重、
170余包の漢方薬が保存
村上医家の診療器具
六代・村上玄秀の薬籠(やくろう)

村上医家史料館

村上医家は、初代宗伯が寛永17年(1640年)に諸町で医院を開業して以来、現在に至るまで医家としてその伝統を継承し続けており、数千点におよぶ医学関連やその他の貴重な資料が残されています。中津市は、この歴史的な所蔵品や建物を基に、「村上医家史料館」を中津市歴史民俗資料館の分館として開設しました。

村上医家史料館では、村上医家や市内に保存されている医学関係の資料を収集・保存・展示し、中津における医学・蘭学・文化の歴史を紹介しています。これにより、市民の郷土理解と文化の向上を目指しています。